昭和50年010月2日 朝の御理解
御理解 第26節
「信心に連れはいらぬ。一人信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが。みな逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。」
大変難しい何がなにやら解らん様な御理解ですね。唯信心に連れはいらぬと言う所はま解らんでも無い様な気がする。ね。矢張り銘々の者ですし又その気にならなければ、信心は出来んのですから。けれども例えばお芝居なんか見に行くでも、まぁ好きな人は誰が行かんでも一人でも行くのですけども、やっぱり連れがあったが良いです。やっぱ話し相手がいる。矢張り見ながらその色んな評をするでも連れがあったがやっぱり面白い。
それでもまぁ連れがなからなければ、誰が行かんでも自分だけは行くと言う様に、まぁ行く訳ですけれども。信心も矢張りそうです。信心に連れは要らぬ。けれども連れがあればあったほうが有難い。ね。例えばお参りをする、御理解を頂く帰る道々でも、今日の御理解はどう頂くか。あんたはどう頂いたかと言った様にです。共励し合いながら帰られると言うたら、それに越した事はない。
かというて又信心の喜びをずっと自分の心の中に治めてというか、秘めてそして心の喜びを、愈々高めて行くという。是は又其処の所を通った者でなからなければ解らない信心の喜びもまたある。死ぬるにも連れが要ろうがと言う所になってまいりますと、愈々訳が解りません。けれども矢張りそのどしな劇と言う事を申します。矢張りあの心中なんかというのはやっぱどしな劇ですよね。又自分が死ぬるなら人をその無理に何というですかね、自分の死の道連れにすると言った様な心の状態が人間にはやっぱりある様です。
そこでですね本当に一人でね。静かにね言うなら昨日の御理解じゃないけれども、如何に死すかと言う事がです、ね。本当に有難く死んで行けれる。死ぬるにも連れがいろうがという一つの人間の心理の中にです、ね。心理状態の中にそう言う物がある。どしな劇的な心がある、ね。そこで私共は一人信心させて貰う。一人信心せよと言った様な、誰が何というても誰が参らなくっても。
私だけはと言った様な一人信心の中で、愈々信心のその状況と言うか、そういう喜びに浸らせて頂いての信心を、段々身に付けて行かなければ、ね。言うなら本当に静かに一人それこそ、お礼を言いながら死んで行くと言った様な事は出来ないと言う様な、私は意味になると思うのです。死ぬるにも連れがいろうがと。人間のギリギリの心の中に、そう言う様なものがある。一人では淋しいからいやでも連れて行こうと言う様なね。所が一人信心と言った様な所。そう言う中からです、ね。
愈々信心の喜びを心に頂いて所謂、勿論信心の喜びを頂くと言う事は、如何に死すかと言う事を、如何に生きるかと言う事だと、昨日頂きました様に。その如何に生きるかというその、生き具合によっての喜びですから。喜ぼうとして喜べないのです。ね。自分がね喜びたいと思うても、神様が許されなければ喜ばれません。自分の思う様になったり都合良い時だけは喜べるけれども、それでない時には喜べない。いや自分の思う様になり都合ようなってもです。
なら果たして喜びが頂けるかというと、なればなったで又淋しゅうて淋しゅうてたまらんと言う様な事になって来るのですから、ね。自分の思う様に成る事だけが有難い。いやそれが信心の喜びに繋がると言う事はない。其処でまぁ昨日のお説教の中から、元旦祭の後のお話の中からまぁ頂きますと結局、ね。言わば本気で教えを実行すると言う事。取分け木の切り株に腰をおろしても、立つ時には礼を言う様な心を持つという、ね。大切にすると言う事。其処で例えばひとすくいの水でも、一粒のお米でも、ね。
勿体ないと教えられたのですから、それを勿体ないと、押し頂く心になって参りますと、其処から不思議に喜びが許される。本気で教えを守らせて頂くと、不思議にそこから許された喜び。是は何かを貰うたから嬉しいとか、有難いというのではない、ね。そう言う言わば、後味の良い喜びを味あわせて頂ながら信心する。一人ひそかに信心すると言う事は、ね。私はこうしよる、こうしなければならないというのではなくて、ね。本気で教えを行じ、守らせて頂いておる事がです。ね。
人じゃない、自分自身がそれを行じ見守って行けば良い。とにかく日に日に生きるが信心なのだからと、最後に結んでおられるですね。日に日に生きるが信心なり。唯生きておる事が其の事が信心ではない。ね。日に日に言うならば、ね。まぁ言うなら真の道を踏みながらとでも申しましょうかね。所謂信心の稽古をさせて頂ながら生きるその事がね。信心になって来る様なおかげを頂かなければならんと言う事。ね。
日に日に生きておると言う事が信心だと解る様なおかげを頂かなければならん。ね。その、日に日に生きるが信心だと言う事を解らせて頂く為にも、どうしても本気で教えに取り組ませて頂かなければ、それが解らない。昨日のお話を私さっき皆さんに聞いて頂ながら、改めて私自身気付かせて頂いた所を聞いて頂いたんですけれども、神様がおかげを下さろうと、ね。私共はおかげを頂きたいと思うて様々に、あぁでもなかろうか、こうでもなかろうかと、工夫しながら信心をさせて頂く訳ですけれども、ね。
それでもおかげが受けられない。神様の方がまぁだ、おかげを下さろうと思うて御座らんからです。所が今年の例えば、私共の一番解らなければならないと言う事は、ね。神様の方が下さろうとしておると言う事、ね。日に日に生きるが信心。日に日に有難いものを、愈々より下さろうとしておる、より正確な間違いのないおかげを、神様が下さろうとしておる。ね。久留米の石橋先生が、ね。あれ程の信心をなさったのだけれども、矢張り来る年も、来る年も借金の利払いだけで終わっておられた。
あぁいう素晴らしい信心をさせておられながらも永い間、当時の八千円と言うその借金の為に、その利払いを毎年なさるだけが精一杯であった。ね。元旦祭を仕え終わられて、そしておとそを頂かれながら、今年も又一生懸命信心させて貰うが、やっぱり結局は、利払いだけで、また終わらんならんのだろうかと、ふと心に淋しい思いをなさった。その瞬間、幽冥からのお声を頂かれた。八百俵の徳を授けるというお声であった。ね。そこで石橋先生は奮い立たれた。
神様が下さるならと、一つ本気で頂く姿勢を作ろうとされた。昨日聞いて頂きたい所は其処でした。今年は神様が愈々有難いものを、今迄かってない有難い物を、今迄かってなかった間違いのない正確なおかげを下さろうとしておる。ね。今迄どんな信心させて頂いても頂けなかった。それはまぁだ神様が下さる、八百俵の徳を授けて下さろうとなさった。それはね。随分長い事掛かられた訳ですけれども、愈々神様が下さろうと言う事になった時にです。その頂く受け物を作る姿勢を作ろうとなさった。
そこにね十年掛かっても、払う事の出来なかった借金が、一年足らずで払える様なおかげを頂かれたと。そのおかげだけではない、そういうおかげの頂けれる徳を受けられたと言う事が素晴らしいのです。八百俵の借金を払うてやる、そういうおかげをやると仰ったのではない。八百俵の徳を授けると仰った。ね。是はその時の八千円という借金が払えたというだけではなくて、何時も今も矢張り、久留米のお広前に残っておるのは、八百俵の徳が残っておるのです。
八百俵の徳を授ける。私は今度の今度って今年の神様が下さろうとするおかげを頂き得たらです。そのおかげを頂き得たら正確のとか、有難いというおかげを頂き得たならです。それは有難い、言うなら正確なおかげの頂けれる、徳になると思うです。ね。是は私が受けておるおかげなどは、現在皆さんが、まぁ一つの手本にして頂きたいと思うのですよね。いうならば、正確なおかげを受けておるです。例えていうなら、必要な時には、必要なものをきちっと集まるです。ね。
ほんなら有難いおかげというても、私の有難いというのはもう愈々恐らく、私が死ぬるまでこの有難いというのは、伸び育って行く事に違いはないと思われる程しの有難さです。限りのあるものじゃないです、ね。例えばほんなら私はだから今年はそれを、もっと素晴らしいもっというなら偉大なおかげ偉大な、言わば正確さを帰していけれるおかげ。もっともっと深い広い有難さと言う物を勿論、下さろうというのだから目指さなければなりませんが、皆さんにおいてもそうです。
皆さんはほんなら自分の手元の所に様々な、ほんなら此処ん所を頂かんならんと言う様な、不如意な所が御座いますでしょう。まぁだ正確と言う程しは行ってないでしょう。だから、皆さんはどうでも私が今まで頂いてきたようなおかげを、皆さんは頂いて頂きたい。そのおかげの頂けれる年だと言う事なんです。ね。そこでです、ね。信心に連れは要らぬと、ね。いうならば、信心に連れは要らぬという信心を、今まではなさってきたと、まぁ、仮定いたします。ね。
けれどもそういう例えば、今度はおかげを頂かせて頂かなければならん。いや頂けれる年柄だからと人にも話し人にも伝え。例えば今日高橋さんが奥さんと同道でお参りになってられます。ね。どうしてもお仕事の都合それこそまぁ、皆が真似の出来ん様な信心を一人でそれこそなさっておられる。けれども今年は親先生が元旦にあぁ言われた。ね。今年は私達が一家で念願しておる所のおかげが成就するおかげも頂けん事はない。そういう年柄なんだ。
為には私が姿勢をとる、作らなければならんというだけではなくて、家族中の者が姿勢を作らなければならないと、まぁ気付かれたか発心されたか、して例えば今日の、奥さんが同道なされておると言う事であったら、もうそういう信心を、今年は頂きたいというのが昨日のお話でしたね。夫婦で言うならば、ね。今日の御理解はなんと頂いたか。あそこの所が解らなかった。あそこはこうだよと言う様にです。ね。共励しながら私は信心をしておる。一人信心が一人又其処に増えると言う事なんです。ね。
私は例えば姿勢を作ると言う事はね、昨日の私が皆さんにお話をした事は、あのほんなら今日高橋さんが、奥さん同道で参っておられる。ね。言うなら東さんが奥さん同道でお参りしておられる。今までかって出来なかった事をです。今年の新たな信心は、是だと気付かれたから、是が出来たと言う事になる時にです神様は、ね。もう今年はねどんなに夫婦で、一生懸命勢を揃えてもどれだけ、家庭中で一生懸命お願いしても、おかげの頂けなかった例えば時からです。
神様が言うなら八百俵の徳を授けると仰る程しの今年であると言う所に、お互いが気付かせて頂いてです。そんならこちらも受けものを作るぞ、姿勢を正すぞ、と言う物が、私はこれから合楽の信心者、信奉者に願われる、求められる信心だ。そして本当におかげを受けてくれよというおかげを受けた時に、始めて、ね。神様と私共が喜び合えるおかげになって来ると言う事になるのです。言うならば一人信心せよと言うのが、此処にも又一人信心する人が増えて来るという事。言うならば合楽示現活動であります。
此の二十六節は中々難しい。ま唯読んだだけでは、何が何やら解らん様な御理解だと思いますけれども頂くたんべんに、まぁその深さというか、広さに触れさせて頂くのですけれども、唯信心には連れは要らぬと言う事を、本当にその様にありますけれども、一人信心が段々おかげを頂いて、言うなら信心の佳境というか、一つの妙境を心に頂、味合わせて頂ける様になったら、それを人にも伝えなければおられないのが信心です。それでも参らんと言うなら仕方がないけれども、ね。
其処に連れが出来る。そしてその人も又言うならば一人信心。一人信心と言うのはです、誰が何というても有難い信心になって行くと言う事ですから、其処に又一人信心が出来る様な人が、自分の周囲に、沢山、いうなら出来て来るというおかげを受けなければならない。そう言うおかげを頂いて行ってこそです、私共はね言うなら、如何に生きるかと言う事に、応える事になると思うのです。
ですから如何に死すかということはです、ね。それこそ死に際に、連れがいる様な心の状態と言う物から脱皮して、ね。安らかな喜び安心の世界に入って行く事が出来る事を確信しながら、私は一生を全うして行けれる信心の、ギリギリ所謂、究極の所を体得させて頂けれる事に成って来ると思うのです。それには日に日に生きるが信心なりと言う所を大事にしなければならない。それを今日はその日に日に生きる内容の一部を、まっ聞いて頂いた様に思います。
どうぞ。